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・ブルース・リー


ブルース・リー

2011年3月21日

●ブルース・リーの生涯

カンフースターのブルース・リー、生まれは1940年11月27日。生まれた場所はサンフランシスコで、ブルース・リーは芸名で本名は李(リー)振藩(ジュンファン)と言います。ジュンファンの字を見てみると、「振」は戻るを指していて、「藩」はサンフランシスコを指していますので、将来的にサンフランシスコに戻ると言う願いを込めて付けられた名前だそうです。
幼少の頃、香港に帰国をして映画に出演する様になったのは8歳の頃からだと言います。この辺りから芸名を本名の李振藩から李(リー)小龍(シャオロン)と変えました。最初に習ったのは詠春拳で、ケンカに勝つ事を目的としていたそうです。その後、18歳でアメリカ・シアトルに単身渡米をして移住しワシントン大学に入学しました。この頃、ブルース・リーの象徴ともなった截拳道(ジークンドー)を編み出し、道場まで開いて色んな人に教えていたそうです。そしてその道場生であったリンダ・エメリーと恋に落ち結婚をしました。ハワイで行われた世界空手道選手権で演武した際にテレビプロデューサーの目に止まり、テレビシリーズに準主役級の配役で抜擢されたそうです。香港の子役から武道に魅せられてアメリカでテレビに出るまで、ブルース・リーはとても順調な人生を送っていたと言えます。
テレビシリーズにブルース・リーが出る様になったのが1966年の事です。そこからテレビドラマ「燃えよカンフー」の主役はブルース・リーと言う声も出て注目された様ですが、デヴィッド・キャラダインと言う俳優がが主役に抜擢された為に意気消沈したと言います。その後、ブルース・リーは仙骨損傷と言うカンフーをやるには致命的な損傷をしてしまい、再起不能とまで言われたそうですが、さすが持ち前の根性でそれを克服しました。そして香港に再び帰国しました。この時香港では米中の国交樹立と言う事も有り、アメリカから帰国したブルース・リーはテレビに引っ張りだこになったと言います。
ブルース・リーの大活躍のきっかけになったのは1970年に契約した弱小映画会社ゴールデンハーベストとの契約で、そこから出された映画は香港の興行記録を次々と更新していったそうです。世界のトップスター入りを果たした映画はタイトルは誰もが知っていると思いますが1973年制作、ハリウッドと香港の共同合作映画になった「燃えよドラゴン」です。しかしトップスターになったのも束の間、同年7月20日にベティ・ティンペイと言う女優がブルース・リーに与えたアスピリンと言う鎮痛剤のせいで死に至り、32歳と言う短い人生に終止符を打ったと言う事です。
ブルース・リーの台詞
【人から感じとる事。自分自身を知ると言うのは感じとる事なのだ】
【真偽を判断しようと考えるな】
ブルース・リーの思想
【増やすな、捨てろ】
【お前自身は考えた様に変わる】
【常に己でいる事。己を表現し、そして信頼する事】
【人は他人の為に生きているのではない】
【周りを気にせず、チャンスは自分で作り出せ】

●ブルース・リーの特徴

ヌンチャクを持って「アチョー」と奇声を発する。これがブルース・リーの特徴ではないでしょうか。「ドラゴン怒りの鉄拳」で披露されたのを知っている方が多いと思います。しかし、ちょっとだけですがアメリカで活躍していた頃に出演した「グリーン・ホーネット」でも「ハーイ」と言う奇声を発していたと言います。これはブルース・リーが考案した奇声と言う事ですが、どこから考えついたのかは定かでは有りません。一説によると、ブルース・リーはジークンドーを考案する際に、武道や格闘技等、世界中の物を研究したそうです。その1つ剣道では「ヤー」とか気合いを入れて声を出すシーンが有りますよね。見た事が有る方もたくさんいるでしょう。そこからヒントを得て考えついたのではないかと言われているのです。そう考えると似ていますよね。
またブルース・リーはマリリン・モンローやジェームス・ディーンの様に、亡くなっても、現役時代を知らない世代に対しても、いつまでも崇拝されるスーパースターなのです。
アクションや武術に長けていて、特徴となっていたのがブルース・リーですが、あの独特の表情も特徴の1つとして挙げられると思います。東洋人としての神秘的な感じをまさに鬼気迫る表情で現しているのは見事としか言えないでしょう。モノマネをしている人がたくさんいるので見た事がある人もたくさんいると思いますが、イメージとしては歌舞伎役者が怒りを表す時にしているあの表情が似ているようにも感じます。映画で見る独特の表情とアチョーと言う奇声はまさにブルース・リーの特徴と言えるのではないでしょうか。
また、ブルース・リーの忘れてはいけない特徴として「ヌンチャク」が有ります。ヌンチャクを使って敵を倒すと言うストーリーは、ブルース・リーのだいたいの映画で使われています。中でも「燃えよドラゴン」は世界中で大ヒット映画となったのでヌンチャクも広く知られる事になりました。ヌンチャクって重くて硬くて当たれば痛いですよね。でも撮影の時に使用していたヌンチャクはプラスチックで出来ているらしく軽かったそうです。よくシーンで見られたのがグルグルと振り回すシーンでしたが、これはフィリピンのカリ技法と呼ばれる物と、ブルース・リーのオリジナルで考案された技法だそうです。ヌンチャクが有名になった映画「燃えよドラゴン」以降、ヌンチャクが大流行して怪我をする人もたくさん出たそうです。また日本ではヌンチャクはそのまま持ち歩くと軽犯罪法に引っ掛かるおそれが有る為、剥き出しにしないでカバーをして持ち歩かなくてはならないそうです。

●ブルース・リーの格闘技

映画でよく見るブルース・リーが行っている格闘術はジークンドーと呼ばれるブルース・リーオリジナルの格闘術になりますが、その基となっているのが詠春拳であると言われています。ブルース・リーは幼少の頃、父親から太極拳を学んでいました。しかし13歳の頃にケンカに負けた事をきっかけとして、詠春拳を学ぼうと葉問(イップマン)と言う宗家に弟子入りをし、本格的に格闘技の世界へ入りました。また、研究熱心だったブルース・リーは北派小林武術も勉強していったそうです。詠春拳の創始者は女性だった事も有るのか、細かくて多彩な手技が特徴となっています。この武術は実践的な武術として中国武術でも知られていて、ジークンドーの中にも取り入れられました。元々は中国内でしか知られていなかった詠春拳ですが、ブルース・リーのお陰で世界的に知られる武術となったそうです。
詠春拳を元にブルース・リーは截拳道(ジークンドー)を考案しました。相手から受ける攻撃(拳)を断つ、遮る、防ぐ(截)道として考案されたものです。ジークンドーには空手やムエタイやテコンドーの道から豪快で有効な技を取り入れ、柔道、ボクシング、剣道等の技術を元々の詠春拳とMixさせていき、更にそこに哲学の思想を取り入れたと言う、まさにブルース・リーオリジナルの武道を完成させたのです。特徴としては武道にある「型」を用いなかったと言う事です。つまり思想に基づいて技術や方法を出していくと言う物だそうです。今で言う総合格闘技と言えると思いますのでブルース・リーは先駆けて総合格闘技を世に送り出した人物と言えるのです。今でもジークンドーは受け継がれています。ブルース・リーが32歳と言う若さでこの世を去った後、事実上の後継者とされているダニー・イノサントがインストラクターの免状を受けて、現在でもブルース・リーの意志を継ごうと若い世代の人達に指導をしている様です。
今ある武道を基にして、色んな手技や技術、思想等を取り入れ、オリジナルの武道を考案し、極め、そして多くの人達から愛される様になった截拳道(ジークンドー)はブルース・リーの生き様そのものだったのではないでしょうか。映画を是非見てみて、ジークンドーの凄さを経験してみてはいかがでしょうか。
ブルース・リーが世の中に出て来る前のカンフー映画は手技中心の映画となっていました。しかしブルース・リーは初主演作品「ドラゴン危機一髪」で華麗な足技を見せたのだそうです。詠春拳もジークンドーも手技中心の武術で有る為、足技を殆ど見ていなかったようで、映画を見た人はビックリしたそうです。ブルース・リーの足技はとても華麗で早く、迫力がある物でした。後ろ蹴りやサイドキックは代表的な足技となり、色んな場所で用いられた様です。こんなにも影響力が有るなんて、ブルース・リーの偉大さが分かる様な感じがしますよね。

●ブルース・リー家の死について

1973年、アスピリンによる過剰反応でブルース・リーは32歳と言う若さでこの世を去っています。その息子であるブランドン・リーも28歳と言う若さでこの世を去っていた事を知っていたでしょうか。この2人の死について少し挙げてみたいと思います。ブルース・リーの息子、ブランドン・リーは1965年にアメリカ・オークランドにて第1子として誕生しました。その後、香港に行き父親が亡くなる8歳まで過ごしました。ブルース・リーが生きている間、彼が考案したジークンドーと言う武道の英才教育を受けていた様で、ジークンドーの達人になったいたのは間違いなかった事でしょう。ブルース・リーが亡くなった後、アメリカに戻ったブランドン・リーは1985年に「ブランドン・リーのカンフー・ファイター」でブラウン管デビューを果たし、翌年には香港で「ファイヤー・ドラゴン」でスクリーンデビュー、1991年にアメリカ映画に出演し、1993年、主演映画になる予定だった映画の撮影中のアクシデントで亡くなりました。そのアクシデントとは銃で撃たれるシーンでの事、小道具で使っていた銃に実弾が入っていて、その弾に撃たれて亡くなってしまったのです。まさに不慮の事故としか言いようが無いのですが、ブルース・リーが生きていた時、映画のシーンの1つに同じ様なシーンが有ったと言います。この事から、この事故に関しては色んな憶測が飛び交った様です。ブルース・リー、ブランドン・リー、2人とも30歳前後と言う若さで亡くなりました。

●ブルース・リーのトレーニング

鍛え抜かれた身体にたくましい筋肉、それがブルース・リーの身体です。特に背中の筋肉の発達具合が凄いのです。ブルース・リーが重要視した筋肉は背中が1番で、そこから腹筋、足の筋肉、腰の筋肉、肩の筋肉、腕の筋肉と言った感じになります。ここで外れるのが胸筋ですよね。ブルース・リーは邪魔、パンチスピードが遅くなると言う事を理由にして胸板を厚くする様な筋肉の付け方はしなかったみたいです。ブルース・リーは毎日の様にトレーニングをしていたみたいで、腹筋と腕の筋肉に関しては毎日鍛えていたみたいです。その他の部所については毎日じゃなく、1〜2日おきに鍛えていたみたいです。また、ブルース・リーがやっていたのは筋肉を鍛えるだけでは有りません。ジークンドーを含めた武術のトレーニングも毎日やっていたそうです。
ただ、ブルース・リーは筋肉を付けたくてトレーニングをしていた訳じゃないそうです。では何故トレーニングをしていたのでしょうか。一説によるとジークンドーを含めたカンフーの武術を突き詰めようとすると筋肉が付いた身体になってしまったと言う事らしいのです。筋肉が有るからと言って武術が上手く出来るのかと言うとそうではないと言う事になります。筋肉は一生懸命付けるのではなく、武術の鍛練によって身体が武術用に変わって来ると言うものなんだそうです。ちょっと深いですよね。ブルース・リーは武術を鍛練したいからこそトレーニングをし、武術に合ったブルース・リー用の筋肉が出来たと言う事かもしれませんね。
武術や格闘技をしている人は拳が凄い形になっている事が有ります。ブルース・リーも同様でグリーン・ホーネット時代は凄かったそうです。これは拳ダコと言う物だそうです。この時に有るレポーターに拳ダコの事について質問された事が有るみたいですが、冗談混じりで答えていたそうです。実際はサンドバックを何千回も叩いて作った拳ダコなのだそうです。そしてこのレポートの後、ブルース・リーの基に少女が寄ってきたのを茶目っ気ある対応で応対していたそうです。ブルース・リーの人柄が分かるエピソードですよね。そんなブルース・リーは体中を鍛えていたみたいですが拳も特に鍛えていたみたいです。そんな拳エピソードが有ります。ある撮影現場を訪れる際、飛行機で移動していたのですが結構飛行時間が長かったみたいなのです。乗っている間ブルース・リーは肘掛けに拳を叩きつけてずっと拳を鍛えていたそうです。一緒に乗っていた人が暫くは我慢したそうですが、気になって眠れなくなっちゃったのでブルース・リーに拳を肘掛けに叩きつけるのを止めてくれる様に
頼んだそうです。ブルース・リーの基本的な行動として、自分が納得するまでは繰り返して行動すると言う特徴が有ったそうですので、拳を常に鍛えたいと言うブルース・リーのちょっとした一面が見えたかもしれませんよね。

●ブルース・リー生誕70周年

毎年秋になると東京国際映画祭が開催されるのですが、その中でも「アジアの風」部門が話題を集めている様です。2010年にはアジア発世界スターのブルース・リー生誕70周年と言う事もあり、それを記念してブルース・リーの特集が組まれたそうです。上映作品としてはブルース・リーの代表作である1973年公開の『燃えよドラゴン』、1978年公開の『死亡遊戯』等たくさん上映されました。また、ブルース・リーの影響を受けた人達で作り上げた作品も上映されたと言います。詠春拳を教えてくれたイップマンに扮してアクロバティックアクションを披露したり、ブルース・リーが父親と言う設定のベトナム映画が上映されたりと多彩なラインナップだったらしいです。また、BGMには『ドラゴン怒りの鉄拳』の劇中曲を流してみたり、映像を敢えて昔っぽく加工したりと分かっているけど良いでしょ、と言う感じにもなっていた様です。ブルース・リーの生誕を記念してと言うから本来のブルース・リーの作品だけを上映するのかと思ったら、それは当然の様に
ちょっとおふざけ的な映画まで、ブルース・リーを崇拝して尊敬して賛辞を送ろうとしている人達の作品が上映されていたのです。

●ドラゴン怒りの鉄拳

自身が主演した中で大ヒットでかつ最高傑作であるのが『ドラゴン怒りの鉄拳』です。今の世代では名前は知っていても内容まで知っている人は少ないんじゃないでしょうか。でもブルース・リーを知らない世代でも名前は知っていて、アチョーと言う特徴を知っているのはやっぱり凄い人物だったと思います。そこでストーリーを簡単にご紹介してみましょう。
舞台は1900年頭の上海です。上海では当時日本国軍主義の思想が渦巻く動乱の時代でした。ブルース・リーが演じるのは若手の空手、拳法の達人リー。リーは道場を乗っ取ろうとしている奴らと、今は亡き恩師の為に、恩師が作った道場を守ろうと対決していく事になります。しかし敵である日本武術一派は日本国軍主義の手先でも有ります。それを利用し、警察も仲間に加えてリーを追い詰めて行く様になります。追い詰められたリーは復讐を誓い、チャンスを色んな人に変身しながら伺っていました。そこには復讐と言う悲しい気持ちだけではなく、恩師の娘との恋模様も描かれていました。そしてついに敵との対決の日がやってきたのです。それはまさに死力を尽くした戦いになりました。リーは身体いっぱいに殺意をみなぎらせ、絶叫を響かせ、修羅場と言える戦いを全力で戦い抜きました。戦いは終わりを迎えたかに見えましたが、戦いに勝ったリーを待ち受けていたのは的に取り込まれた警察隊の一斉銃火でした。物凄い見せ場がたくさん有る作品に仕上がっています。

日本では『燃えよドラゴン』と言う大ヒット映画、『ドラゴン危機一髪』に続く第三弾の映画となりました。ブルース・リーが主演した映画としては第二作目の作品だそうです。完璧に鍛え抜かれたブルース・リーの肉体がスクリーンいっぱいにアクションとして見せてくれる、まさにブルース・リーならではの魅力がいっぱい詰まった映画となっています。内容はかなり波乱に満ちた内容になっている上に、ブルース・リーならではの緊迫感溢れる空手アクションが全体の半分以上もあると言う事で大ヒットした『燃えよドラゴン』以上の出来であると言えるみたいです。本格的にブルース・リーを世界中に売り出そうとして製作されたもので、内容を見てみるとかなりブルース・リーのアップシーンも多いですし、ブルース・リーのアクションシーンも多いですので、全編通してかなり出番が多くなっていた様に感じます。その中でも凄かったのがアクションシーンです。まさに「可憐」と言う言葉が当てはまる様な感じで、ブルース・リーを武道の達人として挙げていて、ブルース・リー1人に対して大人数、1人と言う様な対決、武器を使ったり、素手で有ったりと色んなアクションシーンが繰り広げられています。
日本人からすると「ちょっと、これは日本人じゃ絶対ないでしょう」と言う様な日本人が的側に現れたりもしていました。でも日本人と言う設定なだけで外見はアジアと言う様な感じだったので、違和感なくブルース・リーとのアクションが見られました。「燃えよドラゴン」の映画では武器としてヌンチャクが登場しましたが、その時よりは色んな技法を交えてヌンチャクも披露されています。ですから、この作品以降、ブルース・リーと言えばヌンチャクと言う様な方程式が出来たのではないかと言う説も有ります。この時の映画のチラシを見ると結構ムチャクチャで、「空手映画」と良う言葉が使われていたり、「ドラゴン怒りの鉄拳」なのに「ドラゴン危機一発」の写真が使われて掲載されていたりとかなりメチャクチャな感じになっていた様です。
また、醍醐味の1つとしてヌンチャクも見応えたっぷりとなっています。2つの鉄の棒を鎖で繋いで使うシンプルな武器ですが、ブルース・リーが使うと凄い早さでヌンチャクを扱い、相手の足や頭を叩き倒すと言う、殺人技として使われています。このヌンチャク使いは圧巻で見る人を魅了しました。日本でも驚異的なヌンチャクブームが起こった程だそうです。この映画ではヌンチャクだけではなく、拳法や空手、棒術と言った武術を見事なまでに見せてくれますが、最後ロシア人ボクサーとブルース・リーが一対一で戦うシーンは15分にも及ぶシーンだった様で圧巻だった様です。ブルース・リーならではの華麗なアクションシーンは見応え抜群です。是非一度見てみてはいかがでしょうか。

●ドラゴン危機一髪

鍛え抜かれたブルース・リーの身のこなし、そして繰り出される神技の空手技。そんな彼が世界中の人を魅了した映画第二弾になります。第一弾は大ヒットをたたき出した「燃えよドラゴン」でした。この映画でブルース・リーは大スターの地位に一気に上がったのです。そして巻き起こったのが空手ブームでした。しかしブルース・リーは1973年7月に突然亡くなってしまいました。これも衝撃が大きかった事でしょう。その後、色んな空手映画やカンフー映画が世の中に出てきました。ポストブルース・リーを狙っていたのかもしれませんが、やっぱり本命と言ったらブルース・リーを置いて他には無いと言った感じですよね。
そんな状態で公開されたのがブルース・リー主演の「ドラゴン危機一髪」でした。ブルース・リーの凄まじいばかりのカンフーアクション、魅力漫才、舞台のバンコクで、映画の面白さや満足感を充分に堪能させてくれる。そんな映画だったのです。ブルース・リーはたくさん映画に出ている様な感じがしますが、主演をやったのはたった4作しかなかった様で、この作品自体は主演第1作目となった様です。ロケはタイのバンコクで行われ、環境に合った迫力あるアクションシーンが見所となっています。制作当時の香港映画で残酷や非現実的なシーンも多々有り、バイオレンス映画特有の作りになっています。また、ブルース・リーが主演とは言え、前半では別の人が主演の扱いをされている様な構成でいたそうです。ちょっと作品としては今ひとつだった様です。
大ヒット映画『燃えよドラゴン』が公開された後とあって、第二弾はどんなに凄いんだろうと期待に胸膨らませて待っていた作品でした。しかし見る側の期待とは裏腹に配給会社側では不安事項がいくつかあったそうです。何せ、第一弾と比べて共演人も知らなければ、制作も香港だった事、制作年が第一弾と第二弾で逆転している事が挙げられていたそうです。しかし、この不安は何だったのか大ヒットを記録してブルース・リー人気を安定させる結果になったそうです。公開当時はブルース・リーが主演している作品に関する情報があまり無かったので、違う作品の写真を引用する事も珍しくなかったようです。ブルース・リー自体の情報が少なかったのも有ります。意外と謎に包まれていた人物だったのですね。でもそれから間もなくしてブルース・リーの特集を組む時期が有り、ブルース・リーの色んな事が明確になったそうです。

ラストシーンでは、お煎餅の様な物をブルース・リーが食べているシーンが有るそうです。お煎餅の様な物を食べながら親戚が殺されているにも関わらず、敵のボスの家にブルース・リーがすっきりした顔で現れるシーンが有るそうです。それは何故なのでしょうか。これにはこの様なエピソードが有るそうです。主人公チェンは親戚たちを殺された復讐を誓い、ボスの家に乗り込む事にしたのですが、その前にちょっと深刻な感じの顔をして空を仰ぎ見るシーンが有るそうです。これはあくまでもエピソードなのですが、死ぬ覚悟をして乗り込むのだからその前に身体の欲求を満たして身体を軽くしたいと考えたそうで、売春宿に急いで向かったそうです。お目当ての女の子は敵方に既に殺されていましたので他の女の子を連れて部屋に向かいました。そして、ベッドに押し倒された女の子はチェンの物凄い肉体美に惚れて仕事を忘れて喜んでお相手をしたそうです。その後にスッキリとしたチェンは小銭しか残って無かったのも有って、ボスの家に乗り込む前に小腹を満たそうと煎餅の様な物を買って食べながらボスの家に向かったのだと言います。
物凄い映画のシーンにしては、欲求的と言うかカットされて当然と言う様な感じのシーンですよね。でも当時の映画ではこうしたシーンもカットせずに全部公開したと言いますから物凄い内容が有る様で無い様でと言う感じが受けられるエピソードだと思います。
大ヒット映画『燃えよドラゴン』以前の若いブルース・リーが見られる作品としても知られています。

●ドラゴンへの道

見所はなんと言っても出演者全員がスタントマンを使わずに自分の身体を使ってアクションを全てこなしているところです。アクションに感じる熱気と格闘技の天才的な魅力は見る人を魅了する事でしょう。この作品はブルース・リー主演映画第4弾として公開された物になります。あまりにも急だった死を遂げた後に公開された映画です。また、役者としてだけじゃなく、制作側にも取り組んだ映画です。武道家として映画人としてブルース・リーの全てを注ぎ込んだ集大成ではないでしょうか。
そんなドラゴンへの道のストーリーですが、ブルース・リーがローマの中華街で働く為に香港へ来たところから話は始まります。中華街周辺には悪徳ボス集団が根付いていて、悪徳ボス集団は色んな格闘技術を持った輩を集め、ブルース・リーが働いているレストランを乗っ取ろうと計画します。それをブルース・リーの素晴らしい格闘技で倒してしまうと言う流れの映画です。ブルース・リーが演じるのは、中国人のタンロンと言う青年です。タンロンは初外国でイタリアに中華街のレストランで働く為にやってきました。英語もイタリア語も分からないタンロンは着いた早々から色んな失敗を繰り返していました。何故イタリアに来たかと言うと、中華レストランを開いているオーナーの美しい女性チェンはマネージャーを勤めている伯父の力不足により経営不信に陥った事で悩んでいました。その上店を乗っ取ろうとする悪徳白人グループの嫌がらせにも悩んでいました。その状況を何とかしてもらいたくタンロンを呼んだのです。しかし頼りない感じのタンロンにチェンは諦めさえも持っていました。そんな時、店に外国人グループが押し寄せてきて店を引き渡す様にせまってきたのです。店を守ろうと従業員一同戦ったのですが敗れてしまいました。そんな中現れたタンロンが小さい頃から学んできた中国拳法やダブル・ヌンチャク等を使って敵を全員たたきのめしたのです。しかし敵だって黙っていません。更なる強敵を用意して乗り込んだのです。チェンが誘拐されたり、戦いがあったり、裏切りがあったりと色々あり、最終的に敵のボスが用意したアメリカ人拳術家と遺跡コロシアムで白熱の戦いが始まったのです。そしてタンロンは勝ち、言い知れぬ悲しみを胸にローマを去っていく。と言う様なストーリーになっています。
ブルース・リーが急逝してから公開された作品だっただけに、見る人もそれなりの思いで見ていたかもしれませんね。

●死亡遊戯

ブルース・リーの死から4年が経った頃、「死亡遊戯」と言う映画でブルース・リーが復活したのです。ブルース・リーファンにとっては待ちに待った映画になりました。
この映画が製作されたのはまだブルース・リーが生きている頃、「ドラゴンへの道」の製作中でローマから帰って来た1972年に着手し始めたと言います。それもブルース・リーがプロデューサーや監督を兼務していたと言いますから、その思い入れは相当な物だったと思います。気合も凄いですし、型も美しかったと思います。きっと完璧なブルース・リー映画を作ろうとしていたのかもしれません。その中で訪れた突然の死、まさに情熱が燃え尽きたかの様な死と言えるかもしれませんね。死後映画で復活したブルース・リーに人々は熱狂したのは事実です。
彼の死後5年、ベールに閉ざされていた「死亡遊戯」と言う超大作映画の全貌が、全世界公開の前に香港で公開され話題をさらったと言います。共演者の豪華者、監督も大物、凄かった様です。この期待の大きさ、彼の偉大さは本当に凄い物で、死が物凄く惜しまれる作品になったと思うのです。

●燃えよドラゴン

日本で最初に大ヒットしたブルース・リーの映画が『燃えよドラゴン』でした。公開当初はこんなに大ヒットするなんて予測していなかったと思います。目を引くポスターの中には、日本では見た事が無い様な武器を手に持って、上半身は裸の男、しかもその男の名前は聞いた事も無いんだからそう予測しても仕方有りませんよね。唯一見る材料になるとしたらハリウッド映画だと言う事だけだった様です。アクション映画が好きな人ならちょっと見てみようかなと言う感じ位で予測していた様です。また、タイトルに「ドラゴン」と付いていたので怪獣映画と勘違いしていた人も少なくなかったのではないでしょうか。

しかしそんな思いとは別に、この映画は大ヒットを記録し、日本にドラゴン旋風が巻き起こったのです。テレビを見るとブルース・リーの真似をしている人もたくさん見ますし、ブルース・リーが話題に上がる事もたくさん有りました。ヌンチャクもおもちゃがたくさん売り出され、振り回す人もたくさん出て来ました。この大ヒットにより空手やカンフーを習いたいと言う人も結構多かった様です。大ヒットするかどうか分からなかった当初は、チラシもブルース・リーを主役としてだすのではなく、主人公が3人くらいいる感じのチラシになっていた様ですが、大ヒットを受けた後のリバイバルではもうブルース・リーを全面に出してアピールしているチラシに変わっていたと言います。ブルース・リー旋風を巻き起こすきっかけとなった映画、それが『燃えよドラゴン』なのです。
燃えよドラゴンで明言したブルース・リーの言葉で有名なのが「Don't think feel」(意味:考えないで感じるんだ)と言う言葉です。聞いた事が有る人も多いのではないでしょうか。
ブルース・リーが演じるのは、少林寺拳法の達人として知られているリーと言う男です。リーの兄弟子であるハンが開催している武術試合が有るのですが、それは命懸けの物でした。その試合に国際情報機構からの要請で参加する事になりました。兄弟子であるとは言っても少林寺道場を破門された身分である兄弟子ハンは、麻薬と売春をしている組織のボスになっていて、武道の達人を自分の手下として働かせていました。リーが何故そんな要請を受けたかと言うと、情報収集をしたかったからです。
この武術試合にはハンの手下以外にも多くの外国からの達人達が参加していましたし、リーの仲間として情報員も何人か身柄を隠して参加していました。ハンの武術試合が行われるのは有る孤島で、そこの地下洞窟にはアヘン工場が有り、何も知らない外国人選手が散歩している合間を利用してリーが発見しました。アヘン工場にはたくさんの捕虜が監禁されていた事実も突き止めました。そこから誰が潜入したかと追うハン達は試合で何人も殺し、リーも敵を次々と試合で殺していきました。最終的にはハンとリーの一騎打ちになり、リーがハンを倒して終わりと言うストーリーとなっています。その一騎打ちのシーンは秘術を出し尽くしていて、見る者を魅了するシーンとなっています。

●ブルース・リーの最後の1日

早すぎる死を遂げたブルース・リー。その最後の1日を真偽は定かじゃありませんが有る見聞を基に追ってみたいと思います。
死亡したのは1973年7月20日、毎朝1時間は行うと言うトレーニングを目眩がしたらしく10分程で中止しました。戻って来ると、自室で『死亡遊戯』のシナリオを見直し手直しをしました。昼食を妻ととった後、妻は友人と会う為に外出をし、それをブルース・リーは見送りました。午後、仕事仲間と打ち合わせをして『死亡遊戯』に出演予定の女優ベティ・ティンペイの自宅へ打ち合わせの為に向かいました。この女優、実はブルース・リーの愛人であったとも言われていました。打ち合わせをし、夜に会合予定である日本料理店に向かおうとした矢先、ブルース・リーが頭痛を訴え、ティンペイから頭痛薬を貰って薬を飲み、ベッドで休んでいたと言います。一緒にティンペイの部屋に行った仕事仲間は会合に向かう為、ティンペイをブルース・リーに付き添わせて先に会合先に行ったそうです。しかし、21時を過ぎてもブルース・リーは目を覚まさなかったので慌てたティンペイは日本料理店にいる仕事仲間レイモンドに連絡をします。レイモンドはティンペイの部屋に行ったが意識はなく、救急車を呼びました。呼吸は無かったが、瞳孔は開いてなかったので病院へ急いで運ばれたが、着いた時には既に亡くなっていたそうです。検死結果は頭痛薬の成分が身体に過剰に反応し、脳浮腫を起こし死亡に至ったと言う事になったそうです。葬儀は香港とシアトルで盛大に行われたそうです。

●ブルース・リー伝記映画

衝撃だったブルース・リーの死後、いくつかブルース・リーの偽物による伝記映画が登場しました。色んな偽物ブルース・リーの映画が有りますが、「ブルース・リー物語」という作品が1番リアリティ感が有って出来が良かったのではないかと思います。ストーリーは現実感たっぷりとなっています。ブルース・リーと言えばアクションシーンを無くして語れませんよね。冒頭部分は正直今一つと言った感じですが、話が進んで行くにつれて、スピードも乗ってきて見応えが出てきているらしいです。とは言っても所詮偽物の映画で有る事には変わりはなく、顔が違うのですからあの独特の表情を出す事は難しく、迫力にかけてしまうのは仕方が無い事かも知れません。

ブルース・リーが工事現場付近でトレーニングをしているエピソードを受けて、そのシーンを再現しているのですが、工事現場の作業員としてブルース・リーの映画で実際に共演している人が出演していたりとか、何人か香港スターが出ていたりとかしていた様です。この映画でブルース・リーを演じたのは「ホー・チョンドー」と言う人になります。ブルース・リーのそっくりさんは結構いたらしいですが、その中でも外見も武道の実力も演技も抜き出ていたと言われている俳優さんになります。これを受けて「ブルース・リィ」と名前を変えていた事もあるそうなのです。この映画は結構忠実にブルース・リーの映画を再現していて、ロケ場所等、マニアにはとても見たいと興味を惹かれる作品になっているのではないかと思います。

●ブルース・リーのトラックスーツ

ブルース・リーの特徴の1つとして有るのが黄色のトラックスーツを着て格闘しているシーンだと思います。しかしカンフーと言うと本来は黒い上下の服や白黒の上下のカンフー服が主流だと思います。実際ブルース・リーの映画ではカンフー服を着ていたり、上半身裸で下だけ履いていたりと言う姿が多かったと思います。ではあの黄色のトラックスーツは何故来ていたのでしょうか。トラックスーツを着ていたのは「死亡遊戯」と言う映画でした。有る人がブルース・リーの正統哲学伝道者であるジョン・リトル氏に聞いてみたそうで、その話をちょっとまとめてみたいと思います。
「死亡遊戯」にはコンセプトが有ったそうです。生前、ブルース・リーがこの映画で使う予定だったコンテが残っているそうで、それによると「あの雪原に1つの木が有る。その木の枝にはたくさんの雪が積もっていて、とうとう重さに耐えきれず枝ごと落ちてしまいます。その近くには若い柳の木が有り、折れた木と同じ様に枝にたくさんの雪が積もっています。しかし柳の木は柔軟性が有り、枝がしなります。雪の重さでしなった枝は折れることなく見事雪だけを落とすのである。」と言う物でした。ブルース・リーはカンフー映画だからと言ってカンフー服で無ければならないと言う常識やしきたりに捉われず、何にでも対処出来る様にと言う意味合いを込めてトラックスーツにした。と言う事らしいのです。本人が言っていた訳ではないので真偽のほどは定かじゃありませんが、ブルース・リー自身の信念によってトラックスーツを着る事にしたのは間違いなさそうです。
他の説として、死亡遊戯が公開された当初から言われている説で、映像の色合いに因るというのがあります。ブルース・リー映画の映像では薄暗い感じが多く、映像だけ見てみると「黒」と言ったイメージになります。そこで主演のブルース・リーを目立たせる意味合いとして黒に映える色を考えてみたら「黄色」だったと言う事らしいです。そして黄色いスーツの脇にある黒のライン、これはブルース・リーの動きをよりインパクト有る様にシャープに見せる様に入れられたと言われています。この効果が映画ではきちんと出ている様で、映像の何処にブルース・リーがいても黄色いスーツが目立つので分かりますし、遠くにいても黒の線が動くので身体の動きも把握しやすくなったのです。また、汗や流れた血もキレイに映り、映像効果を高めていた様です。

ブルース・リーが着ていた黄色いトラックスーツは、その時代の時は奇抜だったのかもしれませんが、よく考えてみると見ている側の私達にも分かりやすい様にする為に着たのではないかと言う説が有力の様です。

●ブルース・リーの映画の声

香港映画に限った話ではありますが、香港映画では俳優さんと言う演技をする人とその声を演じる声優さんと言う様に担当割がされていたそうです。その要因の1つとしては騒音にある様で、中国は本当に人口が多いので街中は常に騒音が鳴り響いている状況でした。その為、撮影と声録りを同時に行うと言うのは非常に困難だったそうです。また香港は当時イギリス領でした。その時の傾向として映画で使われる音声は広東語ではなく北京語にしなければならなかったそうで、必然的に吹き替えをしなければならなかったのです。その為、香港映画の資本だけで作られていたブルース・リー主演の映画もその例に漏れず、ブルース・リーの声は入っていないそうです。ブルース・リーの声が入っている主演映画は『燃えよドラゴン』だけになりますが、これは香港とハリウッドと共同資本で製作された為、声が入っているそうです。そう考えるととても貴重な映画と言う事になりますね。
でも香港資本の映画であってもブルース・リーの声を聞く事が出来ると言うのです。それがあの「アチョー」と言う怪鳥音です。俳優と声優が分かれている世界ですから真偽の程は定かじゃありませんが、当時、録音現場にブルース・リーが立ち会うと言った光景は結構有った様で、怪鳥音を入れていたとしても不思議はなかった様に感じます。また映画の効果音も担当していたと言う話も残されています。今はあの『燃えよドラゴン』でさえ一部音が欠けているところが有るらしく、そこが吹き替えられているみたいですので残念ですよね。出来れば本人の声を聞きたかったと、今の技術でなら可能だったかもしれないのにと悔やまれてなりません。



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